
天井は、取っ払える――。日本消化器外科学会の理事を務める、北里大学医学部の比企直樹教授(上部消化管外科)。特に腹部を大きく切らない「腹腔鏡手術」の分野をリードしてきました。現在は、医師が居心地良く働ける環境づくりにも取り組んでいます。比企教授が、医師を志した原点や、手術の実績を築き上げた歩み、そして母校・北里大学への思いについてお聞きしました。
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「医師にはならない」
医師の家系で育ちました。父は、北里大学東病院(2020年、北里大学病院に統合)で院長を務めた医師です。ボートでオリンピックに出るような文武両道の、すごい人でした。慶応高校時代の僕はそれに抵抗して「医師には絶対にならない」と思っていました。
当時は勉強せず、バンドや遊びに明け暮れていました。影響を受けたのは友人の山本康一郎さん(スタイリスト私物©(@stylistshibutsu) )です。今はスタイリストとして「ENNOY(エンノイ)」 (ENNOY(@ennoy_com))という人気ブランドを立ち上げています。
彼とは今でも大親友ですが、当時から彼のセンスは際立っていました。鋭いアンテナを持っていたから、彼が高校時代に身につけるものは、1、2年後には日本中の高校生が真似するようになる。当時はやった「学ランの上にダウンコートを着る」のも、彼が始めたと思います。その後、彼は雑誌「ポパイ」の編集者になり、ファッションの世界へ入っていきましたが、そんな彼と、僕は一緒に遊び歩きました。そうこうしていくうちに、案の定、僕は高校1年で落第しました。

叔父が遺した「信じる」という言葉
慶応高校では、18クラスのうち、1クラス分くらいの生徒が落第します。ただ、普通に勉強していれば落ちません。僕が落第したときは悲しくて「人生どん底だ」と思っていましたね。
そんな僕を励ましてくれたのが、叔父でした。叔父はアメリカの世界的に有名な「マサチューセッツ総合病院」(ハーバード大学医学部の関連病院)で働く医師でしたが、僕を心配して帰国して会いに来てくれたのです。
叔父に「大丈夫か」と聞かれ、僕が「大丈夫だ」と言うと、叔父は「お前の言うことを、信じるからな」と言い残し、東京の自宅に帰っていきました。
ところが、その晩です。叔父は自宅のロッキングチェアの上で寝ていたらしいのですが、叔母が起こしに行ったら、冷たくなって亡くなっていました。まだ38歳でした。ショックでした。
僕は大好きだった叔父の生きた道を目指し、「医師になろう」と心に決めました。
最初の大学受験のときは、鉛筆を転がして答えを決めるしかないような状態で、不合格。翌年の1浪目も全落ちです。親からは「もう医者になるのはやめろ」と言われましたが、「もう1回だけ挑戦させてください」と頼み込みました。2浪目で、ようやく北里大学に合格しました。

夜遅く、病院へ向かう父の姿
医師だった父との忘れられない記憶もあります。
高校生のとき、夜中に勉強していたら、父が病院から帰ってきて「コーヒーをいれろ」と言うのです。僕は「明日試験だから嫌だ」と断ったけど、父はそれでも「いいからいれろ」と続けます。
父は、僕がいれたコーヒーを一口すすって、そのまま家を出ようとしました。「なぜこんな夜遅く、病院に行くのか」と聞いたら、父は「今行かないと患者さんが死んでしまう。術後に出血しているから止めに行く」と言いました。
その姿がかっこよかった。僕も「人の命を救う外科医になろう」と思いました。
学びの喜びに目覚めて
慶応高校で落第し、浪人して大学に入学しています。医学部では必死で勉強しました。
当時はテストの成績が、名前と共に事務室の前に貼り出されました。初めてのテストの後、「自分の成績は下の方だろう」と思って名前を探したら、116人中11番。上の方に書いてありました。生まれて初めて「勉強すれば、できるんだ」と知った瞬間でした。
北里大学では、ボート部に入りました。遊び以外の学びも、どんどんおもしろくなっていきましたね。
大学を卒業したら、消化器外科医になろうとも決めました。北里大学医学部を卒業したら、そのまま北里大学で研修医になるのが普通です。でも、北里の先生たちからは「絶対に来るな」なんて言われましてね。僕の父が当時、北里大学東病院の病院長だったから「人事で忖度をしたくない。だから他へ行きなさい」ということでした。
所属先を探す中で、東京大学医学部附属病院分院第3外科学教室を訪問しました。対応してくれた教授が「うちは3番目の外科(第3外科)だし、病院も小さい。一緒に勉強してくれるなら、嬉しいです」と、頭を下げて手を出してくれました。僕はその手を握り、東大の医局に入りました。

「君の腹腔鏡の技術が、必要だ」
その後、ドイツ・ウルム大学一般外科学教室へ渡航したり、東大大学院で学びを深めたり――。研鑽を積みました。そんな私に声をかけてくれたのが、当時「財団法人がん研究会付属病院・消化器外科(現在のがん研究会有明病院・消化器外科。以下、がん研)」の外科部長だった山口俊晴先生でした。山口先生は「がん研の胃がん手術件数を、全国1位にしよう。そのためには、君の腹腔鏡の技術が必要だ」と誘ってくれました。
こうして2005年、私は東大からがん研に出向しました。当時の腹腔鏡手術は、まだ日本で10人も手がけていないような新しい技術でした。腹部を大きく切る開腹手術が主流だった時代に、小さな穴からカメラを入れるような手術の技を、僕は磨いてきたのです。
私ががん研に移って2年ほどで、胃がんの手術件数が、全国5位から1位になりました。世界中から、優秀な医師が僕の手術を見学に来たり、勉強に来たりするようになりました。
母校に帰った僕の役割
幸せでしたが、一つだけ不満がありました。北里大学から見学に来る人が、一人もいなかったのです。「北里の学生はシャイなのかな」と推測していました。そんな時、当時の北里大学の医学部長・浅利靖先生から「教授選に出ないか」と言われました。母校である「北里の学生に教えられる」と思ったらワクワクして「北里に行きます」とすぐに答えました。
北里大学の授業でも、こんなふうに、僕のたどってきた道を話します。「『一流か』『二流か』は、他人が決めるものではありません。一生懸命頑張れば、一流になれる。天井は、取っ払える」。そう語ると、学生たちの顔がイキイキしてきます。学生たちの天井を取り払うこと。それが北里に帰ってきた僕の役割だと思っています。

比企 直樹(ひき なおき)
1962年生まれ。北里大学医学部卒業。消化器外科医として数多くの手術を手がけ、特に腹腔鏡手術の分野をリードしてきました。国内外での研究・教育にも力を注ぎ、若手医師の育成にも情熱を注いでいます。「患者さんにやさしい医療」をモットーに、新しい手術法の開発と次世代の外科医づくりに挑戦し続けています。社会とつながる
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