
破傷風菌の純粋培養と血清療法を確立し、北里研究所を設立、後進を数多く育て、近代日本医学の黎明期を支えた北里柴三郎博士。2024年7月発行の日本銀行券千円札の肖像に採用され、それを記念して開かれた「北里研究所創立110周年 北里大学創立60周年 新日本銀行券発行記念式典」で、2015年のノーベル生理学・医学賞を受賞された大村 智・北里大学特別栄誉教授が、「北里柴三郎先生の青雲の志」と題して、北里博士の生涯について講演しました。その模様を詳録します。
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皆様こんにちは。
今日はドイツローベルトコッホ研究所のラース・シャーデ所長様ご一行を始め、多くのご来賓の方々をお迎えして開かれた大変おめでたい席で講演をさせていただきますこと、誠に光栄に存じております。
我が国の銀行券、いわゆる紙幣には、菅原道真から始まり今回の3名を加えますと、20名が日本人が見習うべき先達の中から選ばれて肖像画が新札に印刷されてきております。北里柴三郎先生が今回、選ばれ千円札に登場しますことは、先生が創設された北里研究所で研究・教育、そして経営に携わることが出来た者として望外の喜びでございます。特に私は教育に関わってきた者としまして、北里先生が成し遂げられた偉業を顕彰するだけではなく、北里先生という偉大な人物がどのようにして育てられたか、また先生がどのような努力をして来られたかを知り、これを教育の場で参考にすべきと、関係書物で学びながら今日に至っております。そこで、今日はこのような観点を交えて北里先生の偉業とお人柄について、私の主観も交え、話をさせていただきたいと思います。
今から40年ほど前になりますが、小国町が北里先生を顕彰するために、北里先生の生家とその周辺を整備する計画を持っておられました。そこで、北里研究所としてどのようなお手伝いをしたら良いかを相談するため、先生の生家のある小国町をお訪ねいたしました。これは、その時の写真ですが、生家跡に立ちまして、北を見ますと、北里先生の胸像が見られます。北里先生は南を向いておられますが、その裏遠くに、丁度大分県との境にある九重連峰の一つ、涌蓋山が見えます。当初、山の奥かと思ったのですが、そうではなく、とても開けた所でした。私もここに立った時に北里先生はこのような大自然の中で育たれたのだなと感慨を深く致しました。大岡信氏(詩人、評論家 東京芸術大学)が「眺望は人を養う」と言っているように、まさにこの眺望に北里先生は養われたのだと思いました。

北里先生は1853年に庄屋の長男として、お生まれになりました。母、貞は士族の出身で、武家から嫁いできております。そういうこともあったのでしょう、北里先生の養育は非常に厳しかったようであります。5歳の時には村にあった寺子屋にまず通い始めます。8歳になりますと、叔母が嫁いだ先に預けられます。ここで四書五経の素読を受けました。10歳になりますと、母の実家、武家に預けられ、儒者から色々と学ぶことが出来ました。そして、13歳になりますと、熊本に移りまして、儒者田中司馬の塾に入り、漢学を学び、武芸にも励んだとのことです。それから、熊本ではさらに儒者に学びます。そして、16歳のとき藩校の時習館に入寮し学びます。しかし、時習館はまもなく閉校になってしまうのです。この間、1年そこそこでしたが、武芸に励み、柔道、剣道、そして水泳も学んだということです。このように先生が場所を変え、指導者も変えて育っていく様は、中国の古事「孟母三遷(もうぼさんせん)」の言葉を思わせるのであります。
先生は、少年の頃、儒教や漢籍から学ばれたことを行動の規範としておられます。それを4つの言葉を表してみたいと思います。まずは「修己治人(しゅうこちじん)」。これは、人を治めるには自分自身がしっかりしないといけないということです。それから「徳は事業の基なり」、「徳は孤ならず、かならず隣有り」。この言葉は、野口英世が亡くなった時に北里先生は追悼の言葉で、これを使って野口英世を讃えていたという話がございます。それから「己を行うに恥あり」。恥ずかしいことは一切するなと、いうことであります。
さて、北里先生は18歳になると、その時期にできたばかりの古城医学所兼病院(以下「古城医学校」という)後の熊本大学の医学部になるのですが、ここに入学し、生涯の師となるマンスフェルトに出会うのであります。マンスフェルトは3年の契約で勤めておりましたから、3年たったところで、辞めるわけですが、その時に北里先生に更に医学の勉強をするために上京して東京医学校に入ることを勧めます。そこで先生はその教えに従って上京して東京医学校に入学されました。そして、3年の予科と5年間の本科合わせて8年弱ですが、その年に男爵、松尾臣善の次女、乕(とら)と結婚をされます。このご縁は北里先生が自ら開いたと思うのは、先生は東京へ上京しても、殆ど両親からの仕送りは受けず、言わば、今日でいうアルバイトをして生活しておられたのです。そのアルバイト先が牛乳配達をする元締のようなところであるとか、あるいは翻訳をするとかで、先生は生活の糧を稼いでいたのです。先生はそこで、精勤ぶりを認められて、男爵松尾善臣の次女と結婚することになるのであります。この松尾男爵は日銀の6代目の総裁を務めた人物です。そして、卒業していよいよ33歳でベルリン大学のローベルト・コッホの研究室に入って、ここから本格的な微生物の研究が始まります。そして、その輝かしい研究については既に皆様ご存じとは思いますが、その前に北里先生とマンスフェルトとの邂逅は先生にとって非常に重要なものだったのですが、マンスフェルトは軍医で、元々は長崎で教えていたのですが、古城医学校へ3年間の契約で招聘されて来られて、北里先生と邂逅したということであります。マンスフェルトの教育は「教師は学校にて直ちに学生を医者にしたてるものではない。学生をしてその研究上行くべき道を指示し、かつ学生自ら研究すべき方法を教ゆるものである」と、述べているのであります。この見識があり、そして教育熱心なマンスフェルトとの出会いが北里先生の人生に大きな影響を与え、そして先生は医学の道に入っていったのであります。

その当時、先生は古城医学校に入って2年目になりますが、1872年のこと、明治天皇が古城医学校に臨幸されます。その時にマンスフェルトが謁見するのですが、丁度その時、北里先生は塾頭を務めておりまして、その関係もあったでしょうけれど、もう一つは北里先生は語学が堪能で、通訳補助を務められたということです。通訳は医学のことが分かりませんので、北里先生が側にいて、医学用語が出てくると、北里先生が通訳したということであると思われます。そこで、当日のことですが、北里先生は西郷隆盛と共に夕食に招かれて、陛下と3人で夕食のひとときを過ごされました。そして、北里先生は思う存分に医事に関する献言が叶った。翌日、北里柴三郎宛に親書が届けられ、中に明治天皇の御製が認められてあった。これは海堂尊氏の書物の中に現れている言葉です。「ものみなおもふがままになればとて 身のつつしみをわすれざらなむ」、こういう御製でありますそれで、私はつい最近のことですが、秋篠宮皇嗣殿下と会食をご一緒させていただくことがありました。皇嗣殿下曰く明治天皇は非常にたくさんの和歌を残されているとの話でありました。残された御製はおそらく万になるだろうということでした。この御製もその中の1つに入っているものと思われます。
先生はマンスフェルトの教えに従って、東京へ出て行って、東京医学校、今の東京大学医学部に入られます。そして予科3年、本科5年、8年弱、学生生活を送られました。その4年目の25歳の時に有名な「医道論」を表します。この論旨をまとめたものを北里研究所北里柴三郎記念博物館の中瀬安清先生が書いておられます。「人民に摂生保健の道を説いて病を未然に防ぐことが医の本道である」。これは先生がまさに生涯を通じて貫かれた予防医学のことを言っておられるのであります。
北里先生の研究業績はたくさんありますが、特にスライドにある3番目の破傷風菌の純粋培養、抗体の発見。血清療法の確立は世界的に有名になり、今でも医療に大きな影響を与えている研究であります。

まず、コッホ先生の下へ行った時に、初めはコレラの研究などをやっておられたようですが、先生の技量が認められて、コッホ先生から破傷風菌の純粋培養を仰せつかります。そこで、先生は早速研究に取り掛かりまして、まず、これが嫌気性菌であることを見極めます。そして、その培養方法もこれは、化学者ではないかと思うように、嫌気性ですから、酸素があってはいけないのです。まずは酸素を追い出すにはどのようなことをやったかというと、写真にあるキップの装置の下の方に亜鉛を入れておいて、それに硫酸を落としていくと、水素が発生します。

ところがその水素には硫化水素などの不純物が入ったりしており、不純物を完全に取り除かなければならないということで、ビロガロール、そして硝酸の入った瓶が見えますが、そこを通して不純物を除いた水素を先生が開発したこの亀の子シャーレ、フラスコを平らにしたようなシャーレですが、この中に破傷風菌を接種することで、培養できるようになったのです。
そして、さらに先生は菌を発見したことにとどまらず、破傷風の症状を起こすのは、破傷風菌が作る毒素によるものであるということを見出します。そして、毒素を一気に接種すると動物は死んでしまいますが、初めは少量を、そして徐々に濃度を上げていくと、動物は死なない。そこで、先生は、それは体の中に毒素を中和する物質が作られているのだ、と考えました。先生はこれを「アンチトキシン(抗毒素)」という言葉で表しています。そこで、先生はさらに研究を発展させまして、抗毒素(アンチトキシン)を病気の予防と治療に使えるのではないかと考えて、動物に毒素を注射して、そこで得られる血液の上清、即ち血清を破傷風の予防と治療に使うといういわゆる血清療法をここで確立されたのであります。これはジフテリアの抗血清製作の作業の写真です。

このスライドでは馬を使っておりますが馬に毒素を注射しますと、数ヶ月、6ヶ月程かかるのですが、そうすると馬の血液の中にジフテリアの抗毒素が蓄積してきます。そして、今度は血液を抜き取って、上清を子供のジフテリアの予防に使うということです。これは、北里先生が破傷風菌で確立した方法をローベルト・コッホ研究所にいたベーリングがそっくりそのまま北里先生と一緒にジフテリアに応用したのであります。
毒素を注入してから6ヶ月もかかり、しかも血清を抜き取るとまた、毒素を注入するところからやらなくてはならない、非常に煩わしいことなのです。ここが北里先生の一番重要なところだと思うのですが、「黴菌学の進歩と化学の進歩を伴ふて呉れましたならば、黴菌学者が是だけ骨を折らぬでも一種のアンチトキシンと云うものは動物體外にて製することが出来るに違ひない。又今から数年の後に必ずさう云う時節が来ると云う事は今日から分かり切って居る」というふうに予言されております。ちなみに現在では破傷風菌もジフテリアもトキソイドが使われております。すぐというわけではなかったのですが、現在はいわゆる抗体医薬というものがたくさん作られていますが、これは動物体内ではなく、免疫細胞とがん細胞などを融合させて抗体をたくさん作るいわゆるモノクローナル抗体というものが、作れるようになり、そしていろいろのタイプの抗体医薬が作られるようになっております。
そこで、2018年にノーベル生理学・医学賞を受賞された京都大学の本庶佑教授の仕事を図に描いてみました。まず、免疫細胞はPD-1というたんぱく質を細胞の表面に作ります。そして、がん細胞の方はそれを受けるタンパク質PD-L1を表面に持っていて、その2つが結合すると、免疫細胞は働かなくなってしまうのです。そこで免疫細胞ががん細胞に接着するところを阻害するためにPD-1抗体というモノクローナル抗体を作り、患者に投与しますと、これがPD-1と結合してしまいますから、PD-1はPD-L1と結合できなくなり、免疫細胞が働いてがん細胞をやっつけるということです。これがオプシーボと名付けられた抗体医薬です。これで本庶先生はノーベル賞を受賞されております。
そこで、昨年度。抗体医薬というものがどのような状況にあるかを調べてみました。そうしましたら、なんと世界の医薬品の売り上げの1位から10位の間に5つの抗体医薬が開発されて世の中で使われていることが分かりました。一番上の1位のキイトルーダ、是は先ほどのオプシーボと同じような薬品ですが、なんとこの売り上げは、日本円にしますと年間3兆5、6千億円というすごい売り上げになっております。これらの抗体医薬の嚆矢は、北里先生が破傷風菌の研究で発見された抗血清であるのです。
そして1910年にノーベル賞の授与が始まるのですが、その時の最終選考に北里先生は残っていたということですが、実際は第1回目はベーリング博士が受賞されます。このベーリングは北里先生が破傷風で確立した方法を北里先生と一緒にジフテリアに応用することをやったわけです。後に、ローベルト・コッホ先生は、血清療法というのは、北里が最初に成したものであると言っておられるのであります。しかし残念ながら、北里先生はノーベル賞受賞から外れてしまったのです。そのようなこともあり、北里研究所にあっては、私のノーベル賞は2回目の受賞であると、思っているところであります。
さて、私も1965年に北里研究所にかろうじて入所することができました。その時には既に大学を卒業して8年目だったのですが、そこで、遅れてはいるけど、北里先生がどのような理念で研究所を作ったのかを調べて、自分もそれに則って、研究をしなければならないと思い、色々と調べました。そこで見出した言葉がこれです。「全て学問研究の目的は、学者の単一なる道楽ではない。研究の結果はなるべく適切に実地に応用して、国利民福を増進することにある」と言っておられるのであります。これこそまさに北里先生の実学の精神です。
そこで、私も実学の精神に則って研究を進めてきたということでありますが、この実学思想を北里先生はどのように身につけられたかということを思い調べましたら、なんと、横井小楠につき当たったのであります。そして、横井小楠の研究で有名な源 了圓先生は私と一緒に日本学士院会員に選ばれておりましたので、親しく了圓先生の研究の話を聞くことができました。そのような中で、源 了圓先生は横井小楠のことをこのように言っておられました。「1869年、志半ばにして暗殺された幕末の思想家、横井小楠その実学思想は、政治、経済、教育、外交など多岐にわたり、『公共』の理念を基軸として、新しい国家・社会像を打ち立てた。松平春嶽の要請で、政治顧問として福井藩の藩政改革を手掛けた。私塾からは多くの門弟を輩出し、勝海舟、吉田松蔭、坂本龍馬ら維新の立役者達にも多大な影響を与えた」

さて、その門弟達、これを横井実学党と言っておりますが、スライドの左上の徳富一敬から、内藤泰吉まで横井実学統と呼ばれている方々です。例えば安場保和は各地県令などを務めた方ですが、その学僕を後藤新平が務めております。後藤新平のことは皆様ご存知と思いますが、この流れで彼も実学党の影響を受けているということであります。そして、一方、山田武甫、スライドには青色で書いてありますが、山田武甫は熊本洋学校と古城医学校を作ることを先導していったのです。両校は、横井小楠の息子達がアメリカで学んで帰ってきて、日本にも近代的な学校を作ることが必要だということを進言し、これを受けて作られました。ところが、熊本洋学校の方は、ジェーンズという牧師さんを呼んできて教育を行いました。これがキリスト教を基軸とした教育だったために、地元の人たちは子供達がクリスチャンになってしまうのでは、ということで、こういう学校はいらないということで閉鎖されてしまうのです。しかし、その時にいた学生達がすごいのですが、横井時雄というのは横井小楠の息子です。新島襄の同志社に移り、後に同志社の第3代総長になっておりますし、海老名弾正は、第8代総長になる人物ですが、小楠の娘を娶っております。それから横井時敬は東京農大の学長になりますが、東京農大は現在も実学をスクールモットーとしている大学です。こういう訳で、小楠の実学の思想が伝わってきておりますが、山田武甫が作った古城医学校には先ほども話しましたように、マンスフェルトが招かれて教育に当たりましたが、後々に非常に重要な働きをします。北里柴三郎先生、浜田玄達、緒方正規とこういう人達は皆同級生です。ところが浜田、緒方両名は1年そこそこで東京へ行ってしまいます。北里先生はマンスフェルトと一緒に3年間を過ごすことになるのですが、いずれにしても横井小楠の実学の思想が山田武甫・北里柴三郎先生そして北里研究所・北里大学に受け継がれているということであります。
この山田武甫は、教育界、産業界、政界と幅広く活躍した方でありますが、マンスフェルトの教えに従って北里先生が上京した折には、この山田武甫が北里先生の面倒を見てくれました。ある時はこの山田武甫の秘書のような役もしております。そのようなことから、横井小楠の実学の思想が北里先生に十分に受け継がれたと、私は思っております。
北里先生は研究だけでなく、社会活動も次々とされました。まずは、日本結核予防協会を設立され、それから恩賜財団済生会芝病院設立に参画しまして、院長を務められます。そして、北里先生は報恩の情が大変厚い方ですので、福沢諭吉先生が亡くなられた後ですが、慶應義塾大学が医学科を設立するということになった時に、北里先生はこれを作るのに尽力されたのであります。その時には北里先生は既に北里研究所を創られておりましたので、自分の弟子の北島多一、志賀潔、秦佐八郎といった弟子達を引き連れて、慶應大学部医学科の設立に力をつくされ、初代の医学科長を勤められました。そして、北里先生が亡くなられた後、2代目の科長(医学部長)も北島多一先生が務められました。そういうことで、福澤諭吉先生にお世話になった北里先生が、報恩の情を持って、慶應義塾大学のために働いたということです。本日、ご臨席いただいております武見先生の父君の武見太郎先生が会長を務められて日本医師会で頑張っておられた時がありましたが、日本医師会も北里先生が創られたのであります。また現在も続いている日本細菌学会を発足させ、その学会の日本細菌学雑誌の創刊も北里先生によるものであります。という具合で非常に活発に社会活動をしておられました。
そこで、北里先生は、いろいろな方々の知遇を得て、そして色々と支援をいただきながら、偉大な業績を挙げられました。

ここに主だった方々を掲げてありますが、内務省の上官だった長与専斎は北里先生がドイツでの留学を終えて日本に帰ってきた時に研究する場所がなかったのを福沢諭吉に相談して、なんとかしなければいけないのではないかと言ったところ、福沢先生はそんなことでは日本の恥だと言われて、森村市左衛門から資金の支援を頂き、そして福沢先生自身も自分の土地を差し出したりして、日本における最初の伝染病研究所が設立されたのであります。そして、長谷川泰は、済生学舎の創立者ですが、彼は衆議院議員などもやっておりまして、政治的に北里先生をいろいろな場面で支援してくださった人物です。それから、後藤新平は先ほどの安場保和の弟子だったのですが、初めは北里先生と仲が良くなかったようですが、後藤新平がドイツのローベルト・コッホ先生に会いに行くのですが北里先生が紹介して、後藤新平もしばらくドイツにいることになりました。その時にコッホ先生から北里に付いて、細菌学を学びなさいと言われて、北里先生は数ヶ月ですが、後藤新平に細菌学を教えたということです。北里先生と後藤新平は、北里先生が日本に帰ってこられてから、二人で力を合わせて日本の医療行政を発展させたのであります。
北里先生の生涯を見てみますと、「縁尋機妙(えんじんきみょう)」という言葉で表されるのではないかと思います。これは私の好きな言葉ですが、「良い縁がさらに良い縁を尋ねて発展していく様子は誠に妙なるものがある。これを縁尋機妙と言って、いい人に交わっていると良い結果に恵まれる。これを多逢聖因という。人間はできるだけいい機会、いい場所、いい人、いい書籍に会うことを考えなければならない」これは安岡正篤師が言っている言葉であります。
ではお弟子さん達は北里先生をどう見ていたか、お弟子さんの代表格として、北島多一先生がおられますが、北島先生は絶えず、北里先生を支えながら、北里先生がお亡くなりになると、なんと24年間も北里研究所の所長を務められました。慶應義塾大学の医学科も北里先生の後、2代目の科長(医学部長)を務められ、北里先生と共に歩き、北里先生を支えられました。この先生が北里先生を語っておられます。「熱心と努力、豪膽と緻密によって仕事を成功された」「部屋に掛けてある額に『人を疑うて任ずる勿れ、人を任じて疑う勿れ』と書かれていた」「先見の明が非常にあった」「他人に負けることが大嫌い・・非常に剛情」「横文字はコッホ先生丸写し・・余程コッホ先生の字を手習いされたものだと思う」「コッホ先生に対する尊敬の念・・学者の模範」とこのようにいっておられます。
北里先生は伊東市に別荘を持っておられました。広大な敷地だったのです。その側に流れる伊東大川はよく氾濫する川で、丸太橋があったのですが、子供達が渡るには非常に危ないということで、小穴聡氏が「糸別荘事始め」という文の中に「子供への憐憫の情忍び難く、北里先生が拙速で作った慈愛あふれる通学橋」と書いておられます。

これのスライドは北里先生が通学橋を作られ、その竣工式をしているところです。しかし、これもまた流されてしまうのですが、現在、そこへ行ってみますと、幅の広い立派な鉄筋コンクリートの橋がかけられてありますが、今でも「通学橋」と呼んでおります。そして、伊東市の皆さんは、今でも北里先生が伊東市におられたことを誇りに思ってくださっております。そういう意味で、橋は最初に北里先生が作ってくれたということが分かるように橋の袂にそういう説明が掲げてありました。
ハンガリーのブダペストにはドナウ川の側に湧き出る溫泉を使ってプールを作っている所があります。それを先生は見ておられたのではないかと思いますが、先生の別荘に百畳敷溫泉プール作られました。先生は負けず嫌いですから、ドナウ川の温泉プールよりももっと大きいものを作ろうと思われて作ったのではないかと思いますが、通称千人風呂と呼ばれるものを作られました。そして、微笑ましいのは子供達と遊んでおられます。なんと言うんでしょうか。北里先生のお人柄ですね。こういうところが私が先生を敬愛する所以なのです。そして、北里先生は、趣味が色々あるのですが、主なものは3つあるということです。一つは建築。もう一つは鳥を飼うことです。丹頂鶴であるとか、尾長鳥、孔雀など、そういうものを飼って楽しんでいたということです。あと一つは大相撲ですね。大相撲の話をしますと、その当時、有名だった常陸山という横綱を贔屓にしていて、常陸山がアメリカに行って、ルーズベルト大統領に会う手はずをしてさしあげたという話もあります。そして、高峰譲吉とは、盟友で、よく知り合っていましたので、高峰譲吉に頼んで常陸山がアメリカへ行く費用なども工面をしたという話もあります。

ここにご覧いただいている建物は北里文庫と言って、当時のものが改修されて、きれいになっていますが、九州地方で屈指の蔵書を誇る図書館だったということです。これを北里先生が寄付されているわけです。そして奥に見えるのが貴貧館です。私は恐らくこの図書館も北里先生が基本的な設計を描いて、それを大工さんが建てられたのではと、想像しているのですが、そういう趣味がありました。
北里先生はローベルト・コッホ先生に対する報恩の情は大変深いものがありまして、コッホ先生が亡くなりますと、伝染病研究所の頃ですが、まもなく、祠を建ててコッホ先生の御霊を祀りました。そして、北里研究所を創立した時に、北里研究所へそっくり移しました。その後、北里先生が亡くなられた時にはお弟子さん達が北里先生を祀る北里神社を創られたのですが、空襲で焼けてしまいましたので、コッホ先生の御霊と合祀して、コッホ・北里神社としまして、現在、両先生の命日には慰霊祭を行っています。北里先生は、非常に暑い報恩の情がありまして、ご両親に対しても同じです。

両親の肖像画がここに掲げられてありますが、この肖像画を描かれたのが、当時肖像画家として、著名であった原 撫松の作品です。原 撫松は森村市左衛門や時の総理大臣などの肖像画を描いている画家なのですが、この画家に両親の肖像画を描いて頂いたということで、北里先生はご両親への報恩を忘れなかったということがわかるのであります。
北里先生の終始一貫の人生のうちほんの一部を私の主観を交えながらお話しさせていただきましたが、これで私の話を終えたいと思います。ご清聴いただきまして、ありがとうございました。
(2024年7月21日、オークラ東京にて)
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